本文へスキップ

電話でのお問い合わせは072-882-6258

〒571-0079 大阪府門真市野里町31-15

トピックスitiran

戦後80年 平和への思い新たに 脇田運輸・脇田会長(2025/08/17)


「戦争は絶対にやってはならない」

 今年は終戦から80年の節目の年となる。8月15日の終戦記念日を迎え、とりわけ平和への思いを新たにしている人がいる。脇田運輸㈱(大阪市)の脇田隆二会長だ。脇田会長は、昭和13年生まれで今年88歳を迎える。鹿児島県の喜界(きかい)島(じま)の出身で、太平洋戦争を経験した。
 12人兄弟の上から3番目の次男として生まれた脇田会長は、5歳のときアメリカ軍の爆撃機B29が爆弾を落としたのを目の当たりにしている。本土最南端、鹿児島の知覧から多くの特攻隊が飛び立ったが、喜界島は特攻隊の中継基地であり、燃料の補給を行っていた。
 米軍は燃料の補給を阻止するために周囲40キロほどの喜界島をたびたび空襲。そのたびに脇田会長はガジュマルと呼ばれる木の下に穴を掘った防空壕に隠れて難を逃れた。空襲で島は焼け野原となり、犠牲になった島民は少なくない。
 5歳の脇田会長は幼いながらにも当時の状況を鮮明に覚えている。燃料補給を終えた若い特攻隊員は島民に見送られながら、『行ってまいります』とこぶしを高く突き上げて飛び立っていった。二度と帰って来ることはなかった。
 戦時中のモノ・食料不足にあえいでいた喜界島であったが、戦後もしばらくその状況は続いた。
 脇田会長の小中学生当時、島民はろうそく、ランプで生活していた。靴はなく、生徒は皆、裸足で通学し、脇田会長も片道4キロの中学校まで裸足で通学していた。学校はかやぶきで、教室の床は土間。机も椅子もなく、生徒は土間の上にわらで作ったむしろを敷いて座り、そうめんの木箱を机にして授業を受けていた。
 新しい教科書は支給されず、親せきや先輩から譲ってもらった教科書で勉強。昼食は米ではなく、サツマイモを食べていた。
 農業が好きだった脇田会長。中学2年のときには馬にまたがって田んぼを耕し、大人を驚かせていた。地元の県立喜界高校を卒業して農業に従事していたが、昭和33年、19歳のときに大阪に出て来て、トラックの助手を2年やり、21歳の時に運転免許を取得。ボンネット型の6トン車でトラックの運転手になった。脇田運輸は昭和38年に創業。「夜も昼も寝る間もなく働き、家に帰ることはなかった」と現在の脇田運輸の礎(いしずえ)を築いていった。
 今年88歳を迎える脇田会長は今も毎日、朝10時に出社し夕方3時まで働き、会社をサポートする。
「戦時中、先輩は中学を出て15~6歳で戦地に駆り出されていった。今でも世界の各地で戦争が起きていて、戦争と関係のない人が多く犠牲になっている。戦争は絶対にやってはならい」と涙ながらに語っていた。(8月18日号)

【写真】不戦を誓う脇田会長