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【波瀾万丈】大病に苦しむ青春時代を乗り越え 実原運送・実原社長(2025/04/30)
「何を置いても健康が一番」
実原(さねはら)運送㈱(大阪府八尾市)の実原一吉社長は今年で84歳を迎える。中学生のときに大病にかかり、病弱な時期があったが、今は健康そのもの。健康の有難さを人一倍感じている。
実原社長は、鹿児島県徳之島で1941年(昭和16年)に生まれた。実原家は音楽一家。家には蓄音機があり、後に教員となった長女と次女が当時の流行歌に合わせて歌い踊っていた。また、父親は三味線の名手で、近所の祝い事に呼ばれれば弾き語りを披露していたが、実原社長はこうして幼少期より音楽や歌が身近な環境に育った。
実原少年は14歳(中学2年生)の時に、大阪で運送会社を営んでいた12歳年上の長男を頼り上阪。ところが中学3年生のときに突然、心臓弁膜症という病気を発症し、入退院を繰り返す日々となった。お兄さんの運送会社で働きたかったが、兄からは徳之島へ帰ってはどうかと進言されるようになった。
中学を卒業して三洋電機の工場に就職。冷蔵庫製造工程の現場にいたが、病弱な姿を見て会社からは退職勧告された。激しい運動は制限され、夜中に何回も着替えなければならないほど寝汗をかき、息が切れ苦しんだ。
17歳のときに病室で一人「人には宿命がある」と逃れられない自身の宿命に暗たんたる気持ちを抱え、そんな出口が見えない闘病生活を過ごしていた。
19歳になったある日、転機が訪れる。どなたかが隣のベッドの患者に対し、何事かを熱心に説く言葉に心を奪われた。それは「必ず宿命は転換できる」というもの。宗教の勧誘だったが、思わず身を乗り出し、「自分の宿命も転換出来ますか」と質問した。
そのわずか2日後に入信したが、不思議なことにその3日後に汗が止まった。そして約3週間後に退院し、手術することなく心臓弁膜症は完治した。
入信より2年後、以前なら力仕事は考えられなかったが、運転免許を取って兄の運送会社へ就職。その後16年間共に力を合わせて働くこととなった。兄は養子として妻の姓を名乗っていたため、「実原の名前を冠した会社を立ち上げ、故郷に錦を飾ろう」と兄の会社からの独立を決意。
兄から喜ばれ退職金代わりに、中古の2トン車を1台もらった。昭和54年のことだった。
兄の会社のテリトリーだった大阪府都島区から離れた、八尾市に拠点を置き、たった1台の車から運送事業を始めた。資金も事務所も車庫も無い、まったくゼロからのスタートだった。
時代は第2次石油危機の真っ只中、日本では石油の供給が間に合わなくなり、軽油の供給もストップされ実原社長は逆境に立たされたが、そこから5年かけ免許申請への最低台数10台に到達。一般貨物自動車運送事業許可を取得した。
今年で創業46年になる同社は、現在2トン車から3・5トン車まで35台保有。大手飲料メーカーの商品(ジュース・水・酒類)のルート配送を展開するが、バブル崩壊やその後のコロナ禍においても、1台も減車することなく実直に経営を続けている。
実原社長は17歳の大病を患って以来65年間病気したことがなく健康そのものだ。1日1万歩以上は歩き、趣味のゴルフではカートに乗らないという。
今、プライベートで老人ホームへ赴き、歌謡ショーや健康セミナーを慰問として行っている。
実原社長は、「何を置いても健康が一番。従業員には、『健康に感謝、感謝の気持ちで過ごしなさい』『頭と体は使い続けなさい』と常に健康の大切さを口酸っぱく言っている」と話している。
ドライバーを送り出すため毎朝5時に出社し、「気を付けて行って来てくれよ!頑張れよ!ありがとう!」と元気に声掛けを行う。(4月21日号)
【写真】持ち歌は120曲 慰問先ではリクエストが絶えない